-
天下に名高い名馬“望月の駒”
中山道よもやまばなし(その拾)
-
「相坂の関の清水にかげみえて いまやひくらむ望月の駒」
中山道沿いには御牧という地名が残っています。これは古代・中世の官牧、つまり国営牧場で、信濃の国にその半数以上がおかれていました。佐久郡には望月牧、長倉牧、塩野牧の三牧が設けられており、なかでも望月牧は信濃の国最大の官牧で、名馬を産出することで高い評価を受けていました。毎年、望月牧から20頭の駿馬が朝廷に貢献されており、満月(望月)の日に名馬が献上されたので“望月の駒”と名づけられ、それが地名になったという説もあります。
その日、朝廷では左右の馬寮の役人が「駒迎え」として、相坂(逢坂、現滋賀県大津市)の関まで、望月の駒を迎える儀式があり、冒頭の句は紀貫之がその情景を詠んだものです。宮中では天皇をはじめ公家たちが勢揃いして馬の品定めをする「駒牽」の儀がとりおこなわれました。望月宿のひとつ江戸寄り八幡宿は、入り口にある八幡神社がその名の由来ですが、高良社、高麗社とも呼ばれます。古代に高句麗から牧馬の技術をもった渡来人が来て望月の官牧を指導し、その守護神として創建されたものです。
その後、牧官から武家として成長した滋野氏は、この神社を八幡社として尊崇しました。滋野氏は清和天皇の血を伝えるといわれ、平安時代から佐久、小県に根を張った名門の豪族でしたが、やがて、海野、禰津、望月の三家にわかれ、知謀の名将として名高い真田三代(幸隆・昌幸・幸村)は、その本家を継ぐ海野氏の一族といわれます。
[ 信州短期大学 中藤保則 ]
( ←前のお話へ )
-
佐久の新名物「安養寺ラーメン」
中山道よもやまばなし(その拾壱)
-
このコラム(その九)で、佐久の安養寺は信州味噌発祥の地であること、また岩村田の老舗・和泉屋が安養寺の圃場で作った大豆を用いて「安養寺みそ」を醸造・販売していることを述べましたが、その味噌を使った佐久の新名物「安養寺らーめん」が人気を呼んでいます。これは平成20年春、佐久商工会議所がアイディアをだし、佐久拉麺会が開発に当たってきたものです。ラーメンという食べ物は、我々の食生活になくてはならないものですが、もともとは中国産ではなく日本で生まれたものといわれます。
ラーメン店の店主はみな麺にこだわり、スープには独自の工夫を凝らし、具やトッピングにもそれぞれの主張があるものです。こだわるという意味では食べる側も同様で、醤油、塩、味噌、豚骨等の好みがあり、味の品定め、新店の好不評から、味が落ちた云々まで一家言もつ人が少なくありません。そのラーメンの世界に地元の味噌を使って、また新たな味噌ラーメンを作り出そうというのですから、ユニークなある意味では大胆なまでの試みです。しかも、佐久拉麺会を組織したのはそれぞれが店舗のオーナーで、個性豊かな“こだわり”の6人でした。
長い試行錯誤の後、10月には「安養寺らーめん」が完成、一般の人に提供されるようになりました。この共通完成品が評判を得た感触を確かめ、11月からはいよいよ各ラーメン店が個性をうちだした「安養寺らーめん」が登場。そして今は16店舗にまで広がっております。中山道散策の折りに、ぜひ味わってみてください。
[ 信州短期大学 中藤保則 ]
-
美しい白壁が続く“間”(あい)の宿、茂田井
中山道よもやまばなし(その拾弐)
-
望月宿と芦田宿の間にある茂田井は、文字通り間(あい)の宿と呼ばれました。正式な宿場が混雑して収容しきれないような場合、一時的に宿場の役割を果たしたものです。千曲川が氾濫すると川留めになりますが、京寄りの最初の宿場、八幡宿もその次の望月宿もそれほど大きな宿場ではなかったので、間の宿が使われることも多かったのでしょう。
茂田井は酒処でもありました。今も美しい白壁が残り、緩やかにカーブした坂の道は、実に“絵”になります。そのため、いつでもスケッチする人、写真におさめる人の姿が見られます。大澤酒造の建物は元禄初期のものといわれ長い歴史を誇っています。大澤家は江戸時代、庄屋もつとめた豪農で、白壁の建物のなかに民俗資料館と美術館を公開しています。また、大きな白壁に囲まれた家は武重本家で、やはり庄屋もつとめた豪農、江戸末期から酒造りを始めました。その本家の前には明治の歌人若山牧水の歌碑が建っています。牧水は酒仙ともいうべき酒飲みで、酒を詠んだ歌は少なくありませんが、なかでも有名なものはこの歌碑にある「白玉の歯にしみとほる秋の夜は酒はしづかに飲むべかりけり」でしょうか。
諏訪神社の境内には6基の双体道祖神と1基の文字道祖神があります。双体道祖神は男女一対の像が浮き彫りになっている道祖神ですが、安曇野が発祥の地ではないかという説もあり長野県に最も多く残されているものです。
[ 信州短期大学 中藤保則 ]
-
中山道最大の難所、和田峠
中山道よもやまばなし(その拾参)
-
和田宿は本陣1、脇本陣2、旅籠屋28(幕末には72)となかなか賑わった宿場でした。それもそのはず隣の下諏訪宿までは21.6km、中山道一の長丁場でした。しかも、その間には中山道最大の難所、和田峠が待っていました。江戸五街道の最高地点で標高1600m、道幅は狭く肩幅ほどしかなかったという記述もあります。また、積雪も多く冬季の和田峠越えは今では想像もつかない難儀を旅人に課したものでした。江戸の綿糸問屋中村与兵衛が幕府に寄付した1000両の利子を半分ずつ使い、和田峠と碓氷峠に設けられた接待茶屋は、粥や煮麦を施し、人や牛馬も無料で休憩できる「施行所」で、だれからも感謝されたというのもうなずけます。和田峠を越えると下諏訪宿ですが、ここは中山道で唯一温泉が湧く宿です。江戸からの旅人は最大の難所を越えて、旅の疲れを温泉で癒したのでしょう。
ところで和田宿は文久元年(1861)3月10日、火事で全焼し一面焼け野原になってしまいました。しかも運が悪いことにその年は、皇女和宮様が14代将軍徳川家茂に嫁ぐ大行列が中山道を通過し、11月6日に和田宿で宿泊されることにも決まっていました。宿場では急遽御宿泊地返上を申し出ますが変更は許されず、幕府の助成金を得て突貫工事で復興したといいます。変更が許されなかった理由は、やはり難所の長丁場を越えた後、和田宿以外に適当な宿場がなかったからと思われます。次の長久保宿までは7.9kmあります。
[ 信州短期大学 中藤保則 ]
-
浮世絵に見る旧中山道
中山道よもやまばなし(その拾四)
-
渓斎英泉と歌川(安藤)広重が描いた浮世絵の大作に『木曾街道六拾九次』があります。中山道を辿る時、この浮世絵を見ておくと楽しみも一段と増すというものです。この浮世絵は天保6年(1835)から刊行され始め、同13年(1842)頃完結したとされています。最初は英泉が用いられ、やがて広重が加わったのですが、その理由はよくわかっておりません。英泉は美人画で有名で、広重は『東海道五拾三次』『京都名所』『近江八景』などのシリーズもので評判をとっていました。
『木曾街道六拾九次』の19は「軽井沢」(広重)で、浅間山とのんびりとした寒村を背景に客を乗せた馬と馬子が描かれ、焚き火で旅人がキセルに火をつけている図です。
20は「沓掛ノ駅/平塚原雨中之景」(英泉)、激しい雨の中荷駄を載せた馬と馬子、旅人が難儀している姿が描かれています。
21は「木曾街道・追分宿 浅間山眺望」(英泉)、雄大な浅間山の麓を荷駄を運ぶ馬や人が忙ぎ足で通っていきます。
22「小田井」(広重)は浅間を遠謀する寂しいススキの原、本堂造立の旗を手にした勧進僧と巡礼が見えます。物悲しく情緒あふれる風景を描く場合、広重がよく使った題材であるといいます。
23「岩村田」(英泉)は特異な絵です。杖を手に争う盲人たちの迫力のある姿なのです。
24「塩なた」(広重)は一転して穏やかな千曲川と渡舟場の様子です。
25「八幡」(広重)は宿はずれの小川の橋を行きかう旅人と村人。
26「望月」(広重)は巨大な松並木を行きかう旅人たちを満月が照らしています。
27「あし田」(広重)は天然記念物・笠取峠の松並木、起伏の激しい峠道を大胆な抽象的なカーブで描きだしています。
28「長久保」(広重)、宿に近い依田川河畔の図、ここから見える浅間山は、街道を行きかう旅人にとって見納めであり、初めてお目にかかることになります。
29「和田」(広重)、峠の山道です。緑に覆いかぶさる雪が厳しい旅路を現わしています。
[ 信州短期大学 中藤保則 ]

