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東信州 中山道の寺社仏閣について

神社・寺院が語りかける街道の歴史

 中山道の街道沿いには、もともと数多くの神社、仏閣がありました。しかし、明治維新の廃仏毀釈における寺院・仏像などの破壊や、廃藩置県に伴う寺領没収によって、たくさんの財産が後世に残されなかった歴史があります。明治新政府は、王政復古と祭政一致から、神道国教化の方策を推進しました。

そこで、1868年3月に神仏分離令を出し、神仏混淆を禁止して、神社を寺院から独立させました。この法令は、文字通り「神道」と「仏教」を分けるという意味のものでしたが、勘違いした人たちが仏教の排斥に乗り出しました。これが廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)です。中山道には、その時代の苦難を乗り越えた寺院が多く残っています。

  • 熊野皇大神社

     碓氷峠の県境にある熊野神社は、本宮社殿が県境にあり、長野県と群馬県にまたがって建っている大変珍しい神社です。

    三社の建物が並び表面からみて中央が本宮。向かって右手が群馬県側で新宮、左手が長野県側で那智宮となっています。

    皇大神社外観

  • 宝珠院

     宝珠院の本山は、五百仏頂山 智積院 根来寺であり、本尊は聖観世音菩薩です。

    古くは「飯玉山 寶珠院 慈眼寺」と伝えられています。ここにあるシダレザクラとアカマツは見事であり、中山道の古い面影を残しています。

    宝珠院外観

  • 円満寺

     円満寺は、康治2年(1142)興教大師の創建によると伝えられる古刹で、現在の建物は延享4年(1747)に再築されたものです。

    近年は多数の石地蔵が建立され石地蔵の寺として親しまれています。開祖が京都から持ち帰った藤の古木が毎年見事な花を咲かせ、砂ずりの藤と言われて参詣者の目を楽しませています。

    円満寺外観

  • 龍雲寺

     龍雲寺は、武田信玄が北高禅師を招いて中興開基した寺院で、帰依が熱く、信濃路に出兵する際は必ず詣で、戦勝祈願をしたと言います。

    伊那で身罷った信玄の遺書により、北高禅師が遺骨と短刀、袈裟環を龍雲寺に葬ったと伝えられ、それらを収めた壺が発掘された場所には五輪塔が建立されています。

    龍雲寺外観

  • 鼻顔稲荷神社

     鼻顔稲荷神社は、永禄年間に京都伏見稲荷から勧請して創建されたと伝えられており、以来、東信地域の稲荷信仰の中心となっています。

    また、伏見(京都)・豊川(愛知)・笠間 (茨城)・祐徳(ゆうとく)(佐賀)と並び、日本五大稲荷の一つとして数えられ、特に2月の初午祭には、ダルマ市や露店が並び、県内外から大勢の参拝客で賑わいます。

    鼻顔稲荷神社外観

  • 八幡神社

     八幡神社境内にある高良社は、八幡神社の旧本殿で、天明3年(1783年)に新たな本殿が建立された際に現在地に移されたものです。

    高良社は、「高麗社(こうらいしゃ)」の転訛したもので、朝鮮半島から日本へ渡ってきた「渡来人」に関わる社であるという説があります。

    現在の高良社は、延徳3年(1491年)に望月城主の滋野遠江守光重らによって建立されたものであり、八幡・蓬田(よもぎだ)・桑山大域の鎮守として広く信仰されていました。

    八幡神社外観

  • 光徳寺

     光徳寺は、文明年間(1469〜1487)に芦田城二代城主芦田右衛門太郎「光玄」が父の芦田備前守「光徳」(芦田城初代城主)の追福のために建立したもので、寺号も父の法号としました。

    松平(芦田)氏が佐久地方を去ると、この地方は仙石秀久(小諸)の領土に属し、多くの社寺が没収されて光徳寺も一部を残すだけとなりましたが、慶長末期「猶国」は君主「家貞」に従い故山に帰り光徳寺を再興しました。

    光徳寺外観

  • 松尾神社

     長久保宿の入り口には酒の神様「松尾神社」があります。京都、松尾神社を本社に持つ酒造守護の神で、古くより酒造家の尊信あつく多くの酒造に関係した人達の参拝が絶えませんでした。

    毎年夏に行なわれる松尾神社の例祭で奉納される「大山獅子」は、唄や笛及び太鼓は京都を思わせる優雅なもので舞い方も古式を伝えていまする。

    松尾神社外観

  • 信定寺

     和田城跡の麓に位置する信定寺は、武田信玄と戦い自ら命を絶ち果てた和田城主、大井信定とその子、信正の菩提冥福を弔うため、
    「和田六騎」と呼ばれる地元有力者が中心となって和田大井氏の居館跡に建立されたと言われています。

    信定寺外観

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東信州 中山道周辺の神社仏閣

東信州 中山道沿道に残る、その他の神社仏閣を紹介します。
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  • 沓掛という言葉にこめた祈りと慣習

    中山道よもやまばなし(その四)

  •  江戸から19次、信州ふたつ目の宿場が沓掛宿です。沓掛という地名は各地の街道筋に見られますが、“沓”とは履き物の靴、昔は草鞋のこと、また、たくさん重ね合わせるという意味もあります。

    旅人が新しい草鞋に履き替え、すり減った草鞋を掛けるところから地名がつけられました。昔は人ばかりではなく馬も草鞋を履きましたので、人馬共に疲れを癒し、これからの旅の安全を祈ったのでしょう。
    また、掛けられた草鞋も決して使い捨てにはせず、畑の肥料などに利用しました。

    江戸は最盛期には120万人の人口をもつといわれる世界一の大都市でした。そして、着物から道具、屎尿にいたるまで無駄にはしない世界一のリサイクル都市でもありました。

    それは江戸に限らず全国同じで、江戸時代の日本は今盛んにいわれているエコロジーの最先端をいっていたのです。しかし、沓掛宿は中軽井沢と名称を変え、中山道で唯一、昔の名前を失った宿場になってしまいました。

    それはともかく、沓掛というと「沓掛時次郎」を思い出す年代の人も多いでしょう。長谷川伸の股旅小説の主人公で、「浅間三筋の煙の下に、生まれ故郷も・・・」と歌ったヒット歌謡曲もあり、長倉神社には「沓掛時次郎」の碑も建てられています。
    「沓掛時次郎まんじゅう」も販売されていて、これは、フィクションから創作されたご当地名物の走りであるそうです。

    [ 信州短期大学 中藤保則 ]

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