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東信州 中山道の文学について

文学に見る中山道の歴史

中山道には、文豪がこよなく愛する場所がたくさんありました。そこからは、名作と呼ばれる作品もたくさん生み出されています。ところで、碓氷峠の山中に一風変わった歌碑があります。それにはこのように書かれていますが・・・

「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十四万万四 二三四万六一十」

これはなんと読むのでしょう? 正解はこちらです↓

【よしやよし 何は置くとも み国ふみ よくぞ読ままし ふみ読まむ人】

この碑を「みくにふみの碑」と呼んでいます。さらに、この峠には、もう二つの数字歌碑があります。

「八万三千八 三六九三三四七 一八二 四五十三二四六 百四億四六」

「四八八三十 一十八五ニ十百 万三三一ニ 五十四六一十八 三千百万四八四」

さてさて、なんと読めばよいのやら… (正解はこちら

  • 室生犀星(むろお さいせい)

    室生犀星は、大正期から昭和中期にかけて活躍した、日本文学を代表する詩人・小説家です。

    室生犀星記念館は、昭和6年に建てられた別荘を改修したもので、犀星は亡くなる前年の昭和36年まで毎夏をここで過ごしました。

    この家では、堀辰雄、津村信夫、立原道造、川端康成、志賀直哉ら多くの作家と交流がありました。

    室生犀星が始めて軽井沢を訪れたのは大正9年の夏のことです。軽井沢の清涼な空気と美しい自然に魅せられた犀星は、つるや旅館を常宿とし、萩原朔太郎・芥川龍之介・松村みね子らと交友を深めました。

    軽井沢の夏の生活は犀星にとって、忘れ難いものとなりました。この旧居は、昭和6年に建てられたもので、亡くなる前年の昭和36年まで毎夏をここで過ごしました。また、昭和19年から24年まで、一家をあげて疎開生活を過ごしたのもこの旧居です。

    室生犀星記念館

  • 堀 辰雄(ほり たつお)

    明治37年東京に生まれ、昭和初期に活躍した作家 堀 辰雄は、大正12年19歳の時に軽井沢を訪れて以来、毎年のようにこの地を訪れるようになり、軽井沢を舞台とした数々の作品を残しました。

    昭和19年からは追分に定住し、この地に建てた家で昭和28年に49歳で亡くなりました。

    堀辰雄記念館は、軽井沢をこよなく愛した作家、堀 辰雄に関する資料を展示・保管する文学館です。館内には、原稿・書簡・初版本・遺愛の品々が展示され、堀 辰雄の生涯と文学の背景を知ることができる展示室、辰雄が晩年を過ごした住居、愛蔵書が納められた書庫があります。

    閲覧室では堀 辰雄の著書や関係資料を閲覧することができ、この記念館を訪れることにより、堀 辰雄の文学に触れることができます。
    また、記念館の周辺は堀 辰雄ゆかりのエリアで、散策を楽しむこともできます。

    堀辰雄記念館

  • 種田 山頭火(たねだ さんとうか)

    自由律の俳人である山頭火は、家族と別離、出家して旅に生き、日本各地を漂泊した。昭和11年5月、山頭火は浅間路を歩き、14日御代田駅におり立ち、雄大な浅間山を眺めながら小諸に向かいました。

    山頭火の浅間の句は10句ありますが、浅間への親しみや、蕎麦、畑といった今でも変わらない風景を詠んだ三句を選び、山頭火直筆で句碑に刻みました。

    「浅間したしい あしたでゆうべで」

    「浅間をまえに まいにち畑うつ ちょうちょう」

    「こんなに蕎麦がうまい 浅間のふもとにいる」

    句碑は昭和11年(1936)5月、山頭火が浅間山麓を旅してから70年を記念して建立しました。

    山頭火の句碑

  • 若山牧水(わかやま ぼくすい)

    宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の出身。大正11年10月に御代田駅より岩村田へ向かい、佐久ホテルに逗留し数々の作品を残しました。

    旅を愛し、旅の各所で歌を詠み、日本各地に彼の歌碑があります。大の酒好きで、一日一升程度の酒を呑んでいたといいます。

    若山牧水碑(茂田井間の宿)

  • 松尾芭蕉(まつお ばしょう)

    現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師です。

    幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めました。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれています。

    松尾芭蕉:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を見る

  • 佐藤春雄(さとう はるお)

    小説家佐藤春夫は昭和二十年の春、戦災を避けて平根村横根(現在佐久市)に疎開してきました。

    彼が佐久のこの地に寓居を得たのは、土地出身の遠藤某氏の紹介によるものであって、時の偶然に過ぎませんでしたが、しかしここに身を置いた春夫は、深く浅麓の天地風物を愛し、戦争が終わってらかも二十八年まで滞在。
    その後もしばしば訪れていた。詩集「佐久の草笛」、随想集「まゆみ抄」、小説「戦国佐久」等、この間に佐久に材料を得た作品が多く残っています。

    佐藤春夫碑

【数字歌碑の読み方解答】

「八万三千八 三六九三三四七 一八二 四五十三二四六 百四億四六」
【山道は 寒く寂しな 一つ家に 夜毎身に凍む 百夜置く霜】

「四八八三十 一十八五二十百 万三三一二 五十四六一十八 三千百万四八四」
【世は闇と 人は言うとも 正道(まさみち)に 勤しむ人は 道も迷はじ】

東信州 中山道の文学施設

東信州 中山道沿道に残る、文学関連の施設を紹介します。
(※クリックすると「ふるさと財団ポータルサイト」のコンテンツにジャンプします)

  • 空前絶後の大行列・皇女和宮様降嫁

    中山道よもやまばなし(その七)

  •  中山道を通った文字通り空前絶後の大行列は、14代将軍徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮降嫁の一行でした。

    和宮様は和田峠を越えた佐久平では八幡宿沓掛宿に泊まっています。また、岩村田宿の西寄りにある相生の松で休憩をとり、野点を楽しんだといわれておりますが、相生は相老いに通じ縁起がよい名前とされています。

    また、相生の松はひとつの根本から雄松(黒松)と雌松(赤松)が分かれ出ているもので、仲のよい夫婦にたとえられます。いずれにしても和宮様にとっては、縁起のよい名前だったのです。

    その一方、縁起の悪い名前を持つ追分宿は相生宿、また、離山は子持山と名前を変えさせられ、行列は大急ぎでその地を通り過ぎたといわれます。

    小田井宿では本陣で昼食をとり、その折、給仕した安川時太郎氏が人形を拝領しています。
    この人形は今も安川家に保存されており、「小田井宿祭り」で披露されています。

    文久元年(1861)の行列は、公武それぞれの面子も加わって信濃では8万人もの人々が動員されたといわれます。和宮が通る前々日からお付きや警護の武士、人足など2万人以上、馬も千頭以上が通過して行ったのです。

    当然通過した地域の疲弊は著しいものがありました。婚約者がいたにもかかわらず幕末の公武合体の象徴として16才という若さで降嫁した和宮は“悲劇のプリンセス”といわれます。

    また、謎に包まれた女性でもあり、有吉佐和子の小説『和宮様御留』では“替え玉”にされてしまいました。わずかに伝えられるところによると、容姿端麗で、政略結婚であったにもかかわらず、同じ歳の家茂との夫婦仲は睦まじかったといわれます。

    [ 信州短期大学 中藤保則 ]

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