笠取峠の松並木
中山道六十九次のうち、江戸から数えて26番目の宿場である『芦田宿(あしたじゅく)』は、現在の長野県北佐久郡立科町芦田に位置しています。芦田宿は、もともと街道の南側にあった芦田村の場所を移転させ、1597(慶長2)年に岩間忠助・土屋右京左衛門らによって「芦田宿立駅についての願文」が出され設立されます。それは幕府が交通政策にのりだした1601(慶長6)年の4年前にあたり、芦田宿は北佐久周辺では最も古い宿場と伝えられています。
ここから先、京都へ向かうには、難所であった笠取峠があるため、この宿場で休憩する旅人が多く、和宮もここの本陣で休憩をしています。中山道が開かれた頃、小諸藩により芦田宿から笠取峠の頂上まで赤松が植えられました。言い伝えでは、1602(慶長7)年頃、「公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、近隣の村むらへ人足が割り当てられ小苗を植え付けた」とされ、幕末まで手入れや補植等の管理が行われていたようです。
宿場としては、本陣、脇本陣2・旅籠6、庄屋、牛宿などがあり、望月宿よりも小さな宿場であったようですが、芦田は生糸の産地として活気を見せていました。さらにこの地は、諏訪道(茅野、上諏訪方面)、上田(丸子、塩田方面)へ通じる脇街道の分岐点としても重要な役割を果たしていて、近隣の津金寺、光徳寺にもその歴史を見ることができます。
現在、町の中心街となっている芦田地区には、中央に旧本陣土屋家があります。この本陣は問屋も兼ねており、明治維新まで公家や諸大名の宿泊、休息などに使われていました。また、1977(昭和52)年の火事により脇本陣のうち1軒が焼失してしまいましたが、本陣は現在も残っており、江戸時代後期の客殿が保存され、当時旅籠であった「つちや」は、今も旅館として営業しています。
立科町の中山道沿道に残る、史跡や観光施設を紹介します。
1.笠取峠
2.笠取峠の一里塚
3.芦田宿本陣土屋家住宅
4.茂田井間の宿
5.無量寺
6.光徳寺
7.津金寺
8.津金寺妙見堂
9.津金寺の宝塔
10.蓼科神社奥社(蓼科山頂)
11.蓼科神社 神代杉
12.金丸土屋旅館
13.立科温泉 権現の湯
14.芦田宿 今泉塔
15.若山牧水歌碑
16.嬉聞耳地蔵尊
17.芦田宿脇本陣 山浦邸土蔵
18.酢屋茂
19.芦田城跡
20.笠取峠の松並木
21.鳥井戸
22.吉村煙嶺句碑(松並木公園)
23.保科五無斎歌碑(松並木公園)
24.三石勝五郎歌碑(松並木公園)
25.松尾芭蕉句碑
26.茂田井諏訪神社
27.蛇石様
28.山部誠倫学校
29.かぶと松と休み石
30.無量寺六地蔵
31.南嶽山光徳寺不開門
32.茂田井一里塚
33.冠者社
34.山部諏訪神社
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軍事都市・江戸を象徴する桝形
中山道よもやまばなし(その参)
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信濃追分節に「追分 桝形の茶屋で ほろと泣いたが 忘らりょか」と、なかなか色っぽい一節もあり、ここに歌われた茶屋「つがるや」は今もその姿をとどめていますが、桝形とはもともと宿場の出入り口に設けられたもので、石垣の上に芝土手を築き、宿場の中が見通せないようになっていました。
道は桝の内側でクランク状に曲がり、宿場の防備、つまりは徳川幕府のおかれた江戸の防備の意味もありました。江戸時代というと中期以降、特に文化文政の頃からは、町人文化が爛熟し、粋を最高の価値観とする江戸っ子の享楽的な面が強い遊びの世界が華ひらいた印象がありますが、初期の江戸は何よりも軍事都市だったのです。
文字通り天下分け目の関ヶ原での戦塵がまだ覚めやらぬ時、そして徳川氏が完全に天下を統一するには、大阪冬の陣(1614年)、夏の陣(115年)を経なければなりませんでした。徳川家康が江戸を構築する時、防御を最大の課題にしたのも、当然のことでした。
その姿勢は江戸から伸びる五街道にも色濃く反映されています。街道に設けられた宿場で、大名や公家が宿泊するのが本陣、そのお供のための脇本陣、本来、陣とは「戦」の意味もありますし、軍勢が集結しているところ、軍勢の隊列を意味します。
本陣とは軍勢の大将が陣取っているところです。桝形もそのような軍事色が濃く残っている遺構でもあるのです。[ 信州短期大学 中藤保則 ]

![中山道・立科地域[芦田宿]の中山道と鉄道や自動車要道路も含めた地図](images/areaMap_tateshina.gif)
