永代人馬施行所
長久保宿 長久保宿は、江戸板橋宿から二十七番目の宿場町です。笠取峠をくだったところにあり、現在も本陣や当時の名残りをとどめる建物が残されています。また、この場所は共に難所であった和田峠と笠取峠との間にあって、最盛期には旅籠が50軒近くある比較的大きな宿場でした。
宿場の発展と共に町並みが横丁の先に広がり、カギ型に曲がった珍しい形の宿場町でした。
宿名「長久保」の本来の表記は長窪郷に含まれる「長窪」でしたが、宿で生活する人々が「窪」の字を敬遠し、久しく保つの意味の「久保」に縁起をかついで変化していったと言われています。
1859年には宿方から代官所へ宿名変更の願書が出されたそうですが、すぐに許可はおりなかったようです。そのため、以降も公文書には「長窪宿」と記されているものが多く、認められたのは明治になってからのことでした。
和田宿 和田宿は、江戸板橋宿から二十八番目の宿場で、慶長7年(1602)中山道開路の際に、散在していた人戸を集合してつくられた宿場でした。ここは中山道随一の難所である和田峠をひかえ、下諏訪宿までの二十二キロの道程に備える宿場町として重要な役割を持っていました。
文久元年(1861)三月の大火で、そのほとんどが焼失してしまいましたが、皇女和宮降嫁に備えて再建された本陣などが復元されています。
長和町の中山道沿道に残る、史跡や観光施設を紹介します。
1.笠取峠(立場茶屋跡)
2.中山道原道
3.大枝垂桜(笠取峠下中山道脇)
4.松尾神社本殿
5.大山獅子(松尾神社例祭奉納)
6.長久保宿の町並
7.一服処濱屋
8.長久保宿本陣
9.長久保宿釜鳴屋
10.浜田屋旅館
11.一里塚跡(四泊)
12.落合橋
13.みみず神社
14.三千僧接待碑
15.若宮八幡神社(大井父子の碑)
16.一里塚跡(上組)
17.八幡神社
18.菩薩寺
19.和田宿の町並み
20.歴史の道資料館かわちや
21.黒耀石石器資料館
22.和田宿本陣
23.かあちゃん屋
24.信定寺
25.和田城址
26.本亭旅館
27.一里塚跡(鍛治足)
28.そば処黒耀
29.唐沢一里塚
30.和田峠山中
31.三十三体観音
32.永代人馬施行所
33.接待の湧水
34.一里塚(東餅屋)
35.東餅屋(力餅)
36.和田峠(古峠)
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日本一の兵(つわもの)、日本一怖い旗印
中山道よもやまばなし(その八)
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中山道が整備される直前の慶長5年(1600)、3万8000人の軍勢が中山道を関ヶ原に向かいました。
徳川家康の本隊は東海道を進み、家康の嫡子、後の二代将軍徳川秀忠が率いた軍勢は中山道を進みました。秀忠は行きがけの駄賃と考えたのでしょうか、
よせばよかったのに秀忠は上田城にこもる真田氏を攻めたのです。秀忠は実質的には初陣だったともいわれ、初陣の功も狙ったのでしょうか。対する真田勢は3000から5000人。一気に押しつぶせると考えたのも無理はありません。
また、徳川には真田に対する恨みもありました。天正13年、徳川家康は上田城の真田昌幸父子を攻め、真田の知謀、奇策の前に手痛い打撃を被り撤退を余儀なくされたのです。徳川勢7000余騎、守る真田は騎馬200余り、雑兵1500人。その結果「真田恐るべし」と天下に武勇が鳴り響きました。
しかし、二度目のこの時も徳川秀忠は真田を攻めきれず、結局あきらめて関ヶ原に向かったのですが、時すでに遅し、天下分け目の戦いに5日も遅れてしまった。そして、大阪の陣では、真田幸村(信繁)率いる真田軍は、敵方の武将にさえ「真田、日本一の兵(つわもの)」と賞賛される奮戦の末、破れていきました。
ところで真田氏の紋所は六連銭(六文銭)であることは知られていますが、これは死者の棺桶に添える三途の川の渡し賃です。死の覚悟を旗に高く掲げた真田の紋所は、敵方にとっては日本一怖い旗印だったと思えます。
[ 信州短期大学 中藤保則 ]

![中山道・長和地域[長久保宿〜和田宿]の中山道と鉄道や自動車要道路も含めた地図](images/areaMap_nagawa.gif)
