芭蕉の句碑
江戸からの長野県の入り口であった碓氷峠は、東海道の箱根と並んで天下一の難所として聞こえた関所でした。峠の頂上からは、関東平野や富士山を見渡すことのできる見晴台があり、その景色は当時の旅人達も眺めていたとされています。ここから続く3つの宿場のことを当時「浅間根腰の三宿」と呼び、北国街道の分岐点をもつ追分宿には、参勤交代の行列や善光寺参詣の人々でにぎわいました。
追分の浅間神杜に、芭蕉の『ふきとばす石も浅間の野分かな』という句を記した碑があります。元禄元年(1688)、芭蕉は『更科紀行』の旅で中山道の追分・沓掛・軽井沢宿を通り、碓氷峠を越えています。いまその面影はほとんど失われましたが、追分にわずかばかり残る建築物が街道筋の風情を感じさせます。
しかし宿場の繁栄に対して、この宿場町を取り囲むようにひろがる農村地帯の農民の生活は辛く厳しかったようです。ここは高冷地のため、ごくわずかのアワ、ヒエ等の雑穀物が主産という寒村で、しかも例年の如く襲う冷害や活火山浅間の噴火による災害に見舞われ、加えて宿場への助郷にかり出されるため、農業にたずさわる民の生活は悲惨なものであったと伝えられています。言うなればこの時代の軽井沢は、旅人たちの落とす路銀が生活を支える収入源であったわけです。
やがて明治になると離山から矢ケ崎を通り群馬県坂本へ通じる碓氷新道や馬車鉄道が開通し、近代化のなかで峠越えの旅は様相を変えていきます。明治19年、一人の外国人の来訪が、軽井沢を宿場町から避暑地へと一変させます。友人とともに軽井沢を訪れたカナダ生まれの英国聖公会宣教師のアレキサンダー・クロフト・ショーは、故国スコットランドを紡佛させるすばらしい自然に感動して、『森の中の屋根のない病院』と軽井沢を称えました。明治21年には大塚山に山荘を構え、軽井沢の魅力を内外の知人に紹介。それ以後、別荘が建ち、明治中期には万平ホテル、三笠ホテルなどの西洋ホテルが建設され、軽井沢は保健休養地としての地位を確立していきました。
軽井沢町の中山道沿道に残る、史跡や観光施設を紹介します。
1.碓氷峠見晴台
2.重要文化財 旧三笠ホテル
3.雲場池
4.室生犀星文学碑
5.芭蕉句碑
6.峠のこまいぬ
7.峠の多重塔
8.信濃宮宗良親王の歌碑
9.熊野皇大神社
10.みくにふみの碑
11.室生犀星俑人像
12.水神の碑
13.一つ家の碑
14.室生犀星記念館
15.旧碓氷峠遊覧歩道コース
16.峠の石の風車
17.峠のシナノキ
18.歴史民族資料館
19.沓掛時次郎碑
20.皇后陛下御歌碑
21.浅間山
22.離山ハイキングコース
23.歴史民俗資料館分室市村記念館
24.追分宿の分去れ
25.追分一里塚
26.堀辰雄記念館
27.泉洞寺の半跏思惟の石仏
28.浅間神社
29.遠近宮
30.桝形の茶屋
31.追分の芭蕉句碑
32.追分宿郷土館
33.しなの追分馬子唄道中
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江戸の流行歌、
北国に広まった信濃追分節中山道よもやまばなし(その五)
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以前、追分節にふれましたが、信濃に入って3つ目の宿駅・追分宿は“追分節”発祥の地です。
かつて、街道を旅人や荷駄を運ぶ主力は馬でしたが、馬をひく馬子たちが唄った道中歌を馬子唄といいます。馬の足取りと、時には過酷な労働が哀切な調子をつくりだしたのでしょうか。
この馬子唄を宿場の飯盛り女たちが座敷で旅人の旅情を慰めるために唄った「馬方節」が、やがて三味線歌謡の「馬方三下がり」「追分節」として北国に広まっていき、江戸では流行歌ともなったといいます。
あの独特の哀切なメロディーは日本人の心情に訴えるものがあったのでしょう。まず越後に定着して越後馬方、松前節から越後追分となり、北前船の航路に沿って酒田追分、本荘追分、さらに北海道に渡って、江差三下がり、松前節から江差追分へと伝播していきました。佐久平の各地にも伝えられております。親沢追分(小海町)、川上追分、相木馬子唄や、塩名田甚句などもこの座敷歌調系追分節の系譜といわれております。信濃追分節は「追分宿郷土館」で聴くことができます。また、追分馬子唄は、追分宿の蕎麦処「生成(きなり)」で聴くことができます。
オーナーの小林博さんは、今では2人しかいない伝承者の一人、普及活動と共にこれからの若い伝承者の育成にも取り組んでおられます。
[ 信州短期大学 中藤保則 ]

![中山道・軽井沢地域[碓氷峠〜軽井沢宿〜沓掛宿〜追分宿]の中山道と鉄道や自動車要道路も含めた地図](images/areaMap_karuizawa.gif)
