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川西そうどう

[2016年3月30日]

ID:299

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挿絵

昔の立科には、いろいろなできごとがたくさん起こりましたが、きょうは、その中でも特に村の人々にとってせつなくかなしいできごとがあったことを、お話しましょう。

昔は、天候のぐあいがわるく、米や作物がとれないとなると、たいへんなことになりました。そんなことが二、三年もつづくと、もうだれも助けてくれません。少しばかりとれた米も、とのさまがとり上げてしまうので、村人たちは食べるものがなくなって、それこそ木の実、草の根を食べたり、やせおとろえて死んでいくもの、村を逃げ出してこじきになるもの、たいへんな世の中になってしまうのでした。

明治二年(一八六九年)のこと、立科の村々もそのような恐ろしいできごとにおそわれたのであります。そこで村人たちは、藤沢の駒形神社に集まって、何とかしなければ…と相だんをはじめたのです。

「小諸のとのさまにおねがいして、しばらくのあいだお米をとり上げないようにしてもらおう。」

「お城の中にあるお米を、村々へわけてもらうようにおねがいしてみよう…」

いろいろなちえや意見を出しあって、相だんしておりました。ところが、とのさまの家らいが、村人たちがこそこそ相だんしているというので、ようすをさぐりに来ていたのです。

「とのさまに、そんなことをおねだりするなんて不礼であるぞ。」

家らいは、村人の代表をとらえて、お城のろうやにとじこめてしまいました。

さあたいへんです。藤沢の村はもちろん、芦田も山部も宇山も塩沢も大さわぎとなりました。村人たちは、むしろばたをたてたり、半しょうをならしながら、藤沢の駒形神社に、ぞくぞくと集まってきました。別にわるいことを相だんしたわけではないのに、村人の代表がとらえられてしまったのです。そんなばかなことは許せません。おこった村人たちは二千人も集まったそうです。

そうして、総大しょうの藤沢の粢仁左衛門、野方の大島庄次のふたりを先頭にして、手に手にくわやかまを持って、小諸を目指して出発したのです。とちゅう、茂田井、望月、八幡、御馬寄とすすむうちに、仲間がどんどんふえて、千曲川に着いたときは、二万人という人数にふくれ上がっていたそうです。御馬寄の千曲川をはさんで小諸城の兵たいたちと、にらみ合いがはじまりました。

いよいよたたかいがはじまろうとするとき、ちょうど県のえらいお役人が通りかかって、とのさまと村人たちの間に入って仲なおりさせ、とのさまがお城のお米を分けてくれることで話がまとまりました。村人たちはそれぞれ自分の村にひき返し、蓼科神社に集まって、かちどきをあげたということです。蓼科神社には、このことをくわしく書いた石碑が建ててあります。

ところが、そのあとがたいへんでした。とのさまは、このできごとをきびしくとりしらべ始めたのです。そして四十七名もの村人をとらえて、お城のろうやにとじこめ、粢仁左衛門と大島庄次のふたりを、死罪(打首)にしてしまいました。

私たちのふるさと立科には、村人の苦しみをすくうために、命をすててとのさまに立ち向かった、りっぱな大先輩がいるのです。後々の人々は、このできごとを「川西そうどう」と名づけました。

ところで、調べてみると、この「川西そうどう」よりもっと昔の昔に、小諸の酒井というとのさまが、あまりに年貢(税金)をきびしく取りたてるので、村人たちが江戸へうったえようとしたが、碓氷峠で追い返されたという、大さわぎなできごともあったのです。

百年も二百年も昔、私たちの先輩は血の汗を流しながら、ふるさと立科を作り上げてきました。私たちも百年二百年の後々の人たちのため、汗を流し歯をくいしばって、ふるさと立科を作り上げていく責任があるのです。

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